私の感覚 過去の話
私の感覚
33歳の私が日々考えていることをサックリと文章にしています☆
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ようこ

  • Author:ようこ
  • 看護学校3年生からお気楽主婦になるまでの私生活のブログです。気ままに思ったことを綴っています。私自身、統合失調症を患っており、病気を抱えながら働くことの大変さを実感しています。2009年6月に第一子を、2015年5月に第2子を出産。今は1歳と小1の息子を囲んでの幸せで大変な生活を楽しんでいます。より多くの人が統合失調症を理解してくれることを願ってます。
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発病して変わったこと
発病する前と後では、何がどう変わったか、についてまとめてみようかと思う。

発病する前はとにかく何にでも全力投球、手を抜く事をよくないことと思っていた節があった。
発病後は、全力投球すると疲れ切ってしまい、ほかに何もできなくなってしまうので、何でもそこそこで、悪く言えば中途半端な感じで取り組むようになった。

休息の取り方で言えば、発病前はとにかく猛スピードで走りぬいては、ちょこっと休み、また猛スピードで走るのを繰り返していたけれど、発病直前はなぜかフルマラソンに挑んでいるかのように、頑張っても頑張っても終わりが見えない、トンネルの中を走り続けているような感覚だった。

発病前は、自分がどういう大人(社会人)になりたいかが思い描けなかったけれど、発病と同時に、自分はどのように生きたらいいのか、指標のようなものが見えてきた気がする。そして数年かけて、職業選択を確かなものとし、その後今の旦那ともお付き合いを始めて結婚の道へ進むことになる。

発病前は世の中はすべて善悪に分かれる物事ばかりだと思っていて、何事にも白黒はっきりさせないと気が済まなかった。
でも発病と同時に、私の中での価値観が一気に崩れ、何がいいことで、何が悪いことなのかが分からなくなった。
そして今は、人それぞれ価値観が違うことに気づき、白黒以外にもグレーがあることを理解するようになった。

発病前は自分と他者の間に、厚い壁のようなものが存在し、自分の事を理解してくれる人なんて、誰もいないと思っていた。
でも発病と同時に、その厚い壁のようなものにぼこぼこと穴が開き、周りの人が自分を見守ってくれているような感覚に陥るようになった。
そして今は、その厚い壁がだいぶ薄くなってきたような感じがして、いつでも自分からその壁をノックすれば、周りが助けてくれるような安心感に包まれるようになった。

発病前は突き詰めて何でも考えて、答えが出ないと悔しい感じがあった。
だから勉強ではとにかく覚えようと必死で、それなりに結果が伴ってきていた。中学3年までは授業中に居眠りするなんて考えたことがなかった位熱心だった。
でも発病後は薬の服薬のせいか、授業中の居眠りは日常茶飯事で、覚えようとしてもすんなり物事が入ってこなくて大変苦労した覚えがある。
しかし発病後しばらく経過し、薬の量がある程度フィットしてくると、日常生活に不自由するほどの記憶障害はなくなり、ある程度まとまった文章も読めるようになってきた。眠気については仕事中に生じて、支障が出ることも多々あり、今でもどうしたらそれなりに動けるようになるのか模索中である。

発病前は他者とコミュニケーションを取るのが非常に難しく感じられていて、特に年上の人に敬語を使わなければならないという強迫観念のため、中々うまく自分の気持ちを表現することができないでいた。
発病後は、コミュニケーションの失敗も多々あるものの、間違った言い方を恐れずに、少しずつ積極的に話す努力ができるようになってきた。
特に躁状態になると色んな人とコミュニケーションを取りたくなるのは、発病後に特にみられる特徴のような気がする。

発病前も今も変わらないのは、わがまま(自分本位)なところと、よく泣くこと、くらいだろうか。

色んな人の発病前と後で変わったこと、変わらないことなどを知りたい気がします。
ぜひコメント残してください!!



嬉しい便り♪
暑中見舞いを出した韓国の友人から、返事が届いた。
彼女が留学先の日本を発って、その後の連絡先が分からずにいて、どうしようかなと迷ったけれど、韓国の実家にお手紙を書いた。
それを彼女の母がフランスにいる友人に届けてくれて、返事が来たというわけである。
長い長い手紙の旅。
アルファベットでつづられたあて先は我が家。
封を開けると、彼女の堪能な日本語のお手紙。
私への気遣いがとても温かなものに感じられました。
フランスへ留学して早一年。
彼女は憧れて行ったフランス、やはり懐かしいのは日本での生活だと言う。
日本ほど良い国はないよ、と繰り返し彼女は書いている。
日本しか知らない私は、いまひとつピンと来ないのだが。
とにかく今日は彼女がフランスで頑張っていることを知り、嬉しくなった。
息子が2ヶ月の時、茨城に会いに来てくれたんだよね。
次にまた会えるのはいつかな?
15歳の時からのペンフレンド。
誰よりも私のことを分かってくれる、大切な友達。
こんな友達がいるってありがたいね。
あれから、7年。
7年前の10月の日記を読み返してみた。
老人保健施設でフルタイムをしていて、ずいぶんと無理をしていた私。
働くことに対してやりがいを見つけたいと思いつつも、責任の重すぎる仕事は嫌だと思い始めていた。
その気持ちは今も同じ。
看護師として働くと、責任の重さは人の命の重み。
今の作業所で働くと、責任の重さは植物の命の重み。
責任の重さによって、お金の重みが決まる。
責任の重さ、それは果たして誰が決めるのだろう。

旦那は障害者や障害児の支援員をしている。
給料は子供が生まれて、家族手当が1万円プラスになっただけで、ほとんど変らない。
障害者の支援はマニュアルどおりに行かないことが多く、突発的なトラブルも多く、神経を使う。
昨日は便失禁プラス便いじりしてしまった少年の対応に追われて、昼ごはんの時間がほとんど取れなかったとか…
重労働の割には対価が低い。
よく書店で「月に20万円の収入で暮らす方法」とかいう類のタイトルの本を見かける。
それを見て、うち、収入が20万円には程遠いんですけれど…と突っ込みを入れたくなる。
せめて、「月10万円の収入で暮らす方法」というタイトルならば、それならばほんの少し貯蓄できるかも、と読んでみたい気もするのだが。

作業所の仕事は、長年やってみたいと思い続けていた、農業の仕事を体験する、と言う意味では、とてもいい経験をさせていただいている。
7年前から農作業がやりたかった私。
しかし、コレを生活の糧にし続けるのはムズカシイ、とも思う。
私の夢、子供3人にはあと2回、妊娠出産が待っている。
そのためにも、一回の出産育児につき100万円あればグッドだが、ちょっとハードルが高いので、70万円貯めたい。
うーん、どこか割りのいい仕事に出会えぬものか…
今まで病気障害を理由に退職せざると得なかった職場、ほとんど。
次はオープンで、願わくば障害者雇用でのチャレンジを考えている。
明日はその第一歩。
チャレンジしてきます!

摂食障害で悩んでいた時。
私はあるときこんな考えに支配されていた。
「食べ物を食べてはいけない、食べる資格がない」と。
それで私は食事ができなくなった。
水とお茶だけを飲んで生活をつないでいた。
入院した時、食べれないで食事の前に座っていると、「食事はお済ですか?」と聞かれる。
なんて答えたらいいのか分からず、とにかく「ハイ」と答えると、「自分で下げてください」と言われる。
そんなことの繰り返しだった。
数日が過ぎた。
私は何でこんな考えに支配されるようになってしまったのだろう、そう思って、摂食障害について書かれた書物を読みふけっていた。
その本に書かれていたことの要点は、摂食障害の原因はネガティブマインドにある、と。
つまり自己否定したくなるような消極的心理精神により、食事を取れなくなってしまうのである。
そのネガティブマインドというのは、生まれつき人は皆持っているものだという。
しかしその量に個人差があり、摂食障害になる人というのは、そのネガティブマインドがもの凄く大きく根深いものであることが大半だという。
ネガティブマインドに支配された摂食障害患者を癒やしていくのに必要なのは、もちろん本人のヤル気は大切ではあるものの、それ以前に周りの環境が大切であると筆者は述べていた。
どんな状態のあなたでも大切な存在で私たちは受け容れます、そう心をこめたメッセージを発信していくことが治療では大切だと述べていた。
なるほどなと思った。
ネガティブマインドか…、たしかに私も消えてしまいたいくらい気持ちが小さくなって、ふわふわと宙をさまよっていた。
一体どうしたらいいんだろう。
そう思って朝食を目の前にして涙を流していた私。
そしたらスタッフが来て、ごはんを食べさせてくれた。
もの凄い葛藤だった、食べちゃダメと心が叫んでいる、でも受け容れてもいいのかもしれないと心は傾いている。
でも少しだけ食べれた。
「みんなようこちゃんにごはんを食べて欲しいと思っているんだよ。」
そう言われたことで、(あー食べていいのか。)と胸のつっかえがスッと取れていった。
それから少しずつ食べようと自分で思えるようになり、摂食障害の時期は過ぎていったのであった。

リンク先のブログでKayさんが次のように述べている。

誰かに助けを求めているうちはわたしは治らないと思っている。
自分で自分を助けよう、どうにかしよう、
そう思ったときから治療が始まるんだと思う。
それをやっていくうちに誰かに助けやアドバイスを求めるのはいいとは思うけど。
他力本願じゃ摂食障害はやっつけられないよ。

うんうん、その通りなんだよね。
自分で自分を助けることが治療のスタートラインなんだよね。
でもそのスタートラインにさえ立てない場合は、やはり周りのサポートが絶対必要なんだと私は思う。
誰かが、「あなたに食べて欲しい、元気になってほしい」とちゃんと伝えれば、ネガティブマインドも影を潜めてくれるんじゃないかなと思う。

食の悩みは今はない私ですが、またいつかネガティブマインドが暴れだすか分かりません。
そんな時は、しばらく立ち止まって、周りの声に耳を澄ませようと思います。

発病した時の事。
13年前のちょうど今頃から、私は相当な不眠に陥り始めていた。
毎日学校から帰ってきて、少しグッタリダラダラして、それから勉強する。
食事と風呂の時間を除いて勉強。
勉強に疲れるとテレビを観ていた。
私の頭はぐるぐる回り、テレビを観ていても、様々なことを考え、ひとときも休まることはなかった。
夜、布団に入っても、頭は休まらない。
毎日毎日からだの疲れだけを癒やし、頭は起きっ放しで学校へ行く。
それでも何とかギリギリの所で動けていた。
感情がものすごく繊細というか敏感になり、些細なことで気持ちが揺らぐ。
心動かされて、様々な考えが頭をよぎり、自分で自分がコントロールできなくなっていく感覚があった。
あの時の私に何があったら、発病は免れていたのか、考えてみた。
きっと将来の展望があったら、発病していなかったのではないかと。
睡眠不足や体質、生活習慣、周囲の環境、それだけで発病するのではない…と私は思うのだ。
将来への漠然とした不安感、先の見えない環境におかれると、自分はどれだけ頑張って努力を続けたらよいのかが分からなくなる。
見通しのなさが、無理を続けるきっかけとなり、(休んではいけない、もっと頑張らなければ…)と自分の限界以上に力を注ぐ結果となったのだと思う。

以上の経験から、達成可能な見通しを持つこと、それが大切だなと思うようになってきた。
達成可能な、自分にとって無理のない目標があれば、どれだけ頑張って力を尽くせばよいのかがおのずと分かってくる。
受験勉強で完璧を目指すと、私なんかはつぶれるタイプだと思っている。
自分の場合、小学校、中学校くらいまでは完璧を目指してもよいが(テストにおける満点とか通信簿のオール5)、高校、専門学校などに行くようになると、科目数は多いし、全てを制覇して完璧を目指そうとすると、やはりどうしてもオーバーワークになってしまうのだと思う。
よっぽど才能に恵まれている人を除けば、得意科目とか好きな科目は完璧に近くなるけれど、そうでない科目はそこそこにできる…くらいでちょうどいいのだと思う。

完璧になる、というのは一瞬すごいことのように思える。
だけどそれにはもの凄い危険が伴っているということを忘れてはいけない。
完璧になるためにはどのくらいの努力が必要になってくるか、それを考えてみないといけない。
例えば歴史のテストで100点をとる完璧さを目指すには、どのくらい勉強したらよいのか、とか。
毎日1時間勉強すれば歴史で100点取れるだろう、とする。
そのくらいなら達成可能かもしれない。
でも5教科で100点満点取るには、じゃあどれだけ勉強したらいいのか?
毎日5時間家庭学習する?!
そんなことを続ければ、身体が持つはずない…
全てにおいて完璧なんて、所詮もの凄い才能に恵まれた人意外目指すのは到底無理なのである。
たとえ主要5教科で満点取れたとしても、音楽は?美術は?体育は?部活動は?委員会活動は?全てにおいて完璧を目指せるのですか?

そんなことが中3の私には分からなかった。

部活ではバレーが上手くなりたい。
生徒会活動も活発に色々取り組みたい。
勉強では満点を目指したい。
歌も上手に歌えるようになりたい。
マラソンも早く走れるようになりたい。
英語検定や漢字検定でより上の級を目指したい。
公文のプリントでもっと難しい問題を制覇したい。
地域の国際交流の活動がしたい。

とにかくやりたいことがたくさんあって、その全てを完璧に…なんて目指していたから、つぶれて当たり前だったのだと今になっては思う。
人は多かれ少なかれ、早かれ遅かれ、一度は挫折経験をするのだと思う。
その挫折経験にて、自分がいかに理想を追い求めすぎていたかを痛感し、その時の自分に見合った達成可能な目標に方向転換していくものだと思う。
私はたまたまその人生における挫折経験に、「統合失調症の発病」というのがくっついてきただけだと思っている。

でも発病した時の、自分の周囲の何だか奇妙な感じ、専門用語で「妄想知覚」とか「妄想気分」というのだけれども、それが今の季節になると、すごく思い出される。
この季節は自分にとって体調を崩しやすい季節だと思っているので、自己管理に気をつけて行きたいと思う。



自分に宛てた手紙
私は昔、よく手紙を書いていた。
未来の自分への手紙を。
その日、家や学校であった嫌なこと、嬉しかったこと、悔しかったこと。
その時その時の想いを綴って、封筒の中にしたためていた。
差出人は書いた年月日を記入。
あて先は「自分へ」。
その時のとてつもなく重い想いを、(あぁ~そんなこともあったな)と振り返ることができる日が来るのだろうか、と当時は思っていた。
でも私は、ダンボール1箱分の手紙を、ある日すべて燃やしてしまう。
過去の思い出を振り返らないようにしようと決意した中学1年の春のこと。
あの時から私は変った。
過去を振り返るだけではなく、未来を見るようにしよう、と思った。
でもそう簡単には、未来は見えてこない。
私の中学時代は、先が見えずに、苦しくもがき続けていたような気がする。
もちろん楽しいことはたくさんあったけれども。

私は発病した。
私の人生における、統合失調症の発病の意義は、「未来を常に考えなさい」という、過去にとらわれ過ぎている自分への警告であったように思う。
私は高校生になって、真剣に自分の将来について考え始めた。
自分はどういう大人になりたいんだろうか、どんな仕事をしていったらいいのだろうか、自分にはどういう生き方ができるのだろうか、考え続けた。
それは病んでいた暗い自分を、光の中に戻す作業であったように思う。
自分の理想や希望が見えてくると、人は更に頑張ることができるようになる。
私は何度も挫折を繰り返すが、いつだって理想は同じ、希望はその時その時で軌道修正して、自分の達成可能な希望を打ち出し続けていた。
過去を思い出し、懐かしむ余裕は、常に持っていたい。
だけれども過去にとらわれて、前に進めなくなっているようではダメだと思っている。
人生は一段一段階段を下りていくようなもの。
昔できたことが、一つずつできなくなっていく。
そういう自分を受け入れていかなくてはならない。
また人は死ぬ直前まで成長できる生き物だと思っている。
体力的には衰えることはあろうとも、知的・精神的にはあきらめない限り成長が期待できると思う。

私はこれからも自分に手紙を書くだろう。
それはいつか過去を懐かしむために、頑張ってきた自分を認めてあげるために、読むときが来るだろう。
手紙は溜まると処分されるが、書いたときの気持ちは永久に忘れ去らないものである。


空想画
中学校1年生の時の話だ。
一学期はオール5だった。
美術は一学期はレタリングとグラデーションの作成。
緻密な作業を淡々とこなすのは好きで、けっこう楽しくできた。
二学期、美術の課題は空想画。
「はぁ?空想画??」
(空想と言うことは、現実にないものを描かなくてはならないということか。空想なんてしたことがないし、現実主義の私にはそんなものを書けるはずがない。現実にないものが空想と言うことは、見た事がないので描くことは不可能だ)
ひねくれ者の私はそう思った。
毎週美術の時間は、喜多郎の幻想的な音楽に包まれ、私は空想画って難しい・・・とため息をつきながら、雑誌をパラパラとめくっていた。
結局二学期の課題は提出しなかった。
先生は夏休みでも出してくれれば、3学期の成績を考慮しますよ、と言ってくれるし、悩みがあれば相談にものりますと言ってくれました。
でも私の場合、悩みというより、空想ができない性格なので仕方ないと自分で思い、相談しませんでした。
結果、2学期の成績は美術は1、その他全部5でした。
担任の先生が、「どうして美術の絵を出さなかったの?1がついているけれど、美術の先生は本当は1を付けたくなかった、空欄にしたかった。完成した絵を見てから、評価したかった、と言っていたよ。」と言っていました。
でも私には空想画は描けませんと正直に言って、結局完成させないまま中学を卒業しました。
3学期の成績は、二学期1だったから、5にはできないらしく、4でした。その他は全部5でした。

統合失調症になってから、私は空想が好きになりました。
現実にありえないことを空想して、一人で楽しむ時間をもてるようになりました。
高校時代は好きな絵を描いていいとのことで、私は虹色の猫を描きました。
モデルはウチで飼っているしろねこです。
タイ語でメーオと猫のことを言います。
虹色の猫の脇に、タイ語でメーオと描きました。
バックは黒。虹色の猫が浮かび上がっています。
これこそ空想画でしょう。
空想画が描けなかった、真面目すぎた中学1年生。
他の人が空想できるのが不思議で仕方なかったなぁ・・・
変人だった、ってことでしょうね。私は。

命の恩人
8月の終わりごろ、私は入院した。
薬はかかりつけのクリニックでもらっているものと同じもの。
特段変わった点はなかったはずなのだが、子供と離れてしまったことによるストレスや、自分の気付かない部分でのストレスがあって、色々と考えすぎてしまったのだろう。
私は頭が痛くて痛くて辛かった。
自分ではどうしようもなくて辛くて、孤独で、しんどくて、もう生きていたくないと思った。
A看護師さんがベッドの所に来てくれた。
「もう生きていたくないです」と私は涙目で訴えた。
「ちょっと待っていてね、すぐ来るから。ノートを持ってくるから、絶対ここにいて待っていてね。」
そう言って立ち去る。
すぐに担当医に連絡してくれたようで、A看護師さんは戻ってきてくれた。
「今からあなたにいくつか聞きたいんだけれど、答えてくれる?」
「ハイ」
「何で生きていたくないと思ったの?」
「頭がもの凄く痛いからです。」
「他には理由はある?」
「疲れたからです」
「あなたにとって、疲れた、というのはどういう状態のことなの?」
「だるくて、色々考えすぎてしまって頭が痛くなって、ぐったりしてしまって動けないことかな、あと熱を測ると37度くらいの微熱が出てること。」A看護師はノートに私の言葉を書き込んでいた。
~以下省略~
医師がそのとき到着して、話を聞いてくれる。
「頭が痛いんだって?」
「ハイ」
「そういう時はいつもどうしていたの?」
「クリニックで出してもらった薬でPZCを頓用で飲んでしのいでいました」
「看護師さんには薬を飲みたいですと伝えた?」
「いいえ。」
「どうして言わないの?」
「A看護師さんが、『頭痛がするからと言ってメジャー(抗精神病薬)を飲む意味が分からない』と言っていたから、そうかと思って薬が欲しいとはそれ以上言いませんでした。」
「でもそれはA看護師さんの考え方で、あなたにはあなたのやり方で楽になる方法を選んでいいんだよ。なにもA看護師さんも、PZCを飲んではダメと言っているわけじゃないんだから。」
「分かりました。」

その日はそれでやり取りが終わった。
翌日、私はA看護師さんのことが大好きになって、もっと話がしたいと思った。
忙しいとは聞いていたが、どうしても話がしたい、そう思って他の看護師を通して、A看護師さんと話がしたいです、と言った。

私は入院してから4日間の間に100回くらいバタバタ倒れていた。
立った時の立ちくらみが1割、残りの9割は原因不明で急に意識が薄れてバタンと倒れる。
そのため、病棟のスタッフは私が倒れることに対して原因が分からず混乱していたようだ。
私はしだいに病状が悪化していき、自分の部屋がどこかも分からなくなってしまった。
A看護師さんが私の事を見て言った。
「あなたの中で何が起こっているの?」
「・・・・・」
「あなたはただの休息入院のつもりで、元気な姿で入ったのに、もう100回以上倒れているわよ。
あなたの中で何かが起こっているから、自分の部屋も分からなくなってしまうんでしょ。」
私はスーッと意識が遠のいていき、ベッドの縁に頭がぶつかりそうになったところを、A看護師さんが支えて、「ちょっと止めてよ。あなたが話したいと言うから来たのに、そんな状態じゃ安心して話ができないでしょ。」
「すみません、看護師さんを困らせたくてやっているわけじゃないんです。」私は泣きそうになった。
「あなたは看護師だから分かるでしょ。目の前で患者さんが原因不明で倒れたらどう思う?」
「困ります」
「あなたはじゃあ、どうして倒れるの?」
「・・・・・・・・よく分からないけれど、言いたい本当の気持ちがあるんだけれども、それを言えない自分がいるんです。辛いとか、悲しいとか、しんどいとか、疲れたとか、大変困っているとか。弱い部分を見せられなくて、神経張り詰めて生きているんです。でももう限界だって身体がSOS出して、意識を遠ざけているのかもしれないです。」
「きっとそうね。あなたは誰がみても疲れているように見えるもの。でもね、あなたが看護師だと思って考えてちょうだい。原因不明で目の前で患者さんがバタンと倒れるのと、患者さんが『頭痛くて辛いんです』と訴えに来るのと、どちらが大変?」
「倒れられた方がビックリします。」
「そうでしょ。だからあなたは、自分の気持ちを看護師に言いに来ていいのよ。」
「分かりました」

「今まで、辛くて辛くて辛くて辛くても、それをギュッと押し縮めて、クスリをがばっと飲んで、そしてまた辛くて辛くて辛くて辛くて辛くても、それをギュッと押し縮めて、クスリをがばっと飲んで、それを繰り返して耐えてきたんだね。」
私はこくんとうなずいた。
「辛かったね」A看護師さんは私のことをみて、ゆっくり言った。
私は涙がポロポロこぼれた。
(あぁ、はじめてこんなに分かってくれる人がいた。)そう思って、心が救われる想いだった。

命の恩人A看護師に「あなたの中で何が起こっているの?」と言われて、私が自己分析できなければ、私はいつまでも倒れ続けていただろう。
私はそのときを境に、一度も倒れなくなった。
ひどい立ちくらみはあるけれども、そのときはすぐにしゃがむ。
倒れない、絶対に倒れない、そうココロに誓った。
その代り、辛い時が100回あったら、1回だけ辛いと、心許せる人にだけ言おう。
辛い時が100回あったら、99回、ブログに辛いと綴ろう。
そう決めた。

たった一週間の入院だったけれど、ココロが満たされたし、勉強になった。
私ならば「あなたの中で何が起こっているの?」なんていう切り口で患者様には聞けないな。
こういう対応もあるんだと、勉強になった。
A看護師さんは私の命の恩人。
もっともっと話がしたかった。
今度、お礼にお手紙を書こう、と思っている。



お母さんから出てくるとき
先日、姉の子供(めいっこ、4歳)と話をしていた。
「ねえねえ、お母さんから出てきたときの事を、覚えている?」
「うん、覚えているよ。」
「どんな感じだった?」
「痛かった!」
「他には何か感じた?」
「うーん、おもしろかった。」
(そっかぁ…痛いけどおもしろい体験だったんだね~)
「Mちゃんはお母さんから生まれてきて、よかった?それとも生まれてこないほうがよかった?」
「生まれてきてよかったよ。」

子供は意外なことを話して来るので、とってもおもしろい。
やっぱり女の子はいいなあとつくづく思ってしまった。

私のかずひさも、痛かったけど、この世に生まれてきてよかった…と思ってくれる日が来るのだろうか。
今は毎日ミルクを飲んで、ウンチとおしっこをして、抱っこして欲しいと泣いて…必死に一日一日を乗り切っているが、いつか「生まれてきてよかったよ、お母さん!」といわれる日が来るといいなと思っている。
幼馴染
私は昔、千葉県のとある会社の社宅に住んでいました。
社宅には同年代の子供が何人もいて、同じ幼稚園の子2人と仲良しで、いつも3人で遊んでいました。
小学校もクラスも同じでした。
3年生の時に一人は富山に引越しました。
私は4年生の時に茨城に引っ越しました。
もう一人の親友は千葉に残り、専門学校を卒業後、ホテル業界に就職。
お互いバラバラになってからは、会うこともなく経過。
3年生の時に別れた友人と、偶然ゆびとまネットで再会。
メールをやり取りするようになりました。
彼女は大阪の大学に進学して、そのまま大阪に定住。
このたび結婚することになったのです。
今週末、その幼馴染の結婚式に行ってきます。
15年ぶりの再会です。
お互い、どのくらい変わっているかしら^^
会うのが楽しみです!